今回、インタビューにご協力いただいた方は…
蛭川克則さんです。

蛭川克則さん

茨城県北地域の久慈郡大子町に生まれ、農協で働きながら父親が始めたコンニャク栽培を手伝っていました。
現在はそめや農園ナツハゼ(※1)を栽培しています。また、上岡小学校跡地保存の会(※2)の代表幹事も務めています。

たむら塾ホームページの第2回目は「コンニャク」について特集することにしました。記事は2018119()のインタビューをもとに作成しました。

宮川コミュニティセンター

大子町教育委員会管轄の組織の一つである宮川コミュニティセンターをお訪ねし、そこの嘱託職員も兼ねている蛭川さんにお話しを伺いました。また、館内には、生コンニャクを削っている様子を描いた絵が展示され、どこか懐かしさを感じさせます。

まずは、コンニャク資料部屋で、農機具や歴史についてお話を聞きました。部屋にはコンニャク加工用具や当時の作業の写真などがありました。

今の時期(11月)は、どのような作業をしていますか?

コンニャク芋を掘り採っている時期です。機械で掘り採って、そのままコンニャク屋の加工場に運んでいます。昔は「カッチャンボウ」という機具を使って手作業で掘っていましたが、今は全部機械化されています。

コンニャク堀

昔は秋にコンニャク葉茎の近くに刃を差し込みテコの原理で掘り起こします。一本刃のものと二本刃のものがあり、コンニャク農家には必ずあったそうです。

現在は機械で一気に掘り採っています。

今と昔で加工に違いはありますか?

昔は掘って、水洗いする・薄く削る・串に刺して干す・アラコ(後述)にする・蔵に閉まっておくという工程を自分たちで全部行い、相場を見ながら売っていました。今は掘り採ったら、そのまま農協や業者に出します。加工は全部向こうがやっています。

コンニャク削ぎ

コンニャクを削るのに使用されていたものです。コンニャク芋を板で上から押さえながら削るなど、手を切らないように改良されていったのが分かります。

アラコ

薄く削ったコンニャク芋を串に刺し、23週間ほど天日干しして、乾燥させる。乾燥したものを外すと崩れ、この崩れたものを「アラコ」と言うそうです。コンニャク粉はこのアラコを臼で挽いて粉にしたものです。

◆どのように相場を知っていたのですか?

新聞に出ているのでそれを見て知りました。あとは、冬になると仲買人が来て、「今は1()20万円ですよ。」と言われて、その相場によって売っていました。1駄とは約180㎏で、馬の背中に乗せられる量です。全部の農家が蔵に閉まっていたので、全国でどのくらい採れているか分からず、価格は大きく乱高下していました。それが農家にとっては魅力的でした。ところが、昭和60年代から農協や加工場に出すようになり、調査で今年は何トン採れたか把握され、乱高下がなくなりました。今年はこの値段と言われたら、大体通しで買われてしまうので、面白みはないですよね。それで大子の農家は嫌気がさして、他の換金作物を作るようになりました。

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蛭川さんが現在、生産しているナツハゼのお茶をいただきながらインタビューさせていただきました。赤色のお茶は不思議なものでしたが、酸味がきいており、スッキリした味わいで美味しかったです。

蛭川さんはコンニャク農家何代目ですか?

父親の代からコンニャク栽培を始めたので、私で2代目です。父は養蚕やタバコなど色々栽培していました。昭和20年頃、乱高下が激しい時期に、父が親戚のコンニャク農家を訪れた時、かごに100円札がどっさり入っていたのを見て、こんにゃく農家はそんなに儲かるんだ!と思い、それから種を取り寄せて栽培を始めたそうです。

品種は何を栽培していましたか?

在来種です。しかし、最後のほうは「はるなくろ(※3)」も栽培していました。改良種の「はるなくろ」や「あかぎおおだま(※4)」よりも在来種のほうが、粒子のきめが細かく、良質な粉ができるので、アラコから臼で粉にするときの歩留まりが非常に高いのが特徴です。粒子が荒いのは「トビコ」と言って粉が飛んでいってしまいます。その粉を練ってコンニャクにしたときも在来種のほうが質が良いです。しかし、価格が安くなり、収益を上げるために、量の採れる改良種にシフトしていきました。そして現在、大子で在来種を作っている農家は2軒になってしまいました。

在来種と改良種で栽培期間や工程は変わりますか?

工程は変わりませんが、改良種は出荷できる大きさになるまで3年かかるのに対し、在来種は5年かかります。改良種のほうが肥大率が高いということです。しかし、基準の20㎝より大きくなると値段が下がってしまいます。また、生子(キゴ)の形が違います。生子とは1年目小さい芋のことで、「ドンゴ」とも呼びます。在来種はきれいな形ですが、改良種はビョーンと伸びた形をしています。

蛭川さん家のコンニャクの敷地面積と生産量はどのくらいでしたか?

昭和40年代頃は、2ヘクタールくらいありました。生産量は売り玉と生子から採れる種にするのと変わるのですが、売り玉だと10アール(0.1ヘクタール)あたり6070俵くらい採れました。当時は1(45)2万円しましたが、現在は3,500円くらいです。


作業で苦労したこと・こだわっていたことは何ですか?

コンニャクは育つのに少なくとも3年かかることに加え、寒さに弱いので、屋内で越冬して、春になると植えねばいけません。この工程を何年もするのが大変です。とくに在来種は、病気に弱いので2週間に1回ボルドー液(※5)という消毒液をかけないといけません。稲と同じで1つが病気になると蔓延してしまいます。病気になるともちろん売れませんので、如何に病気を出さずに多く出荷できるかを大切にしていました。

コンニャク芋を3年以上、土に寝かしていたらどうなりますか?

そのまま大きくなりますし、「花咲玉(※6)」といって花が咲くのがありますが、咲くと下の実が食われてなくなってしまいます。そうなると、生子もでません。4年過ぎると花が発生する確率が高いです。15~20㎏の芋は花が咲かずに上手くいったものですが、残念ながら食用には不向きです。

蔵ではどのように保存していたのですか?

コンニャク専用の貯蔵室「ヒムロ」に入れたり、囲炉裏の上の柱のところに「火棚(※7)」をつけて、そこにコンニャク芋を積んでいました。囲炉裏を焚いて、その煙で一晩中5~6℃に保っていました。煙で燻されるので、春に出すときは真っ黒テカテカになっていました。現在はエアコンなどを使い、温度管理しています。

日常でコンニャクはどのくらい召し上がっていますか?

週一くらいで鍋とかにして食べています。今はいとこがコンニャクを作って、生玉で販売しているので、時々持ってきてもらっています。

どんな食べ方がおすすめですか?

生とろコンニャクとかおすすめです。こんにゃく関所とか袋田の滝の店にあります。私は生合わせのほうが独特で好きですが、生とろもプルっとしていて美味しいですよね。柚子醤油やポン酢につけて食べるのがおすすめです。

衰退していくコンニャク文化についてどのような思いがありますか?

せっかく発祥地(※8)なので残ってほしいと思います。山形の玉コンニャクのような消費拡大できるもの、そして気軽に食べ歩きができるものが出てくればいいですね。そういった商品をもっと出していったら残っていけるのではないかと思います。

今後の目標を教えてください。

現在はナツハゼとか栽培していますので、ナツハゼの持つ目の疲労回復・インフルエンザ予防効果を活かして、県内はもちろん他県にもどんどんPRしていきたいです。ばんどう太郎とタイアップしてナツハゼの飴を出しているのでそれも広がっていってほしいです。

以上、大子町よりコンニャク産地インタビューでした。
蛭川さん、ありがとうございました。


※1
庭木図鑑 植木ペディアによると、ナツハゼはツツジ科スノキ属で、初夏にできはじめ、9~10月にかけて熟す。ハゼノキのように美しい紅葉を見せるためナツハゼと名づけられた。
(参照:https://www.uekipedia.jp/落葉広葉樹-ナ行/ナツハゼ/)

※2
大子町公式ホームページによると、明治12年に創立し、13年に閉校した。「上岡小跡地保存の会」により地域の活性化と生活文化の向上を目的に管理されている。「花子とアン」など数々のドラマ撮影に活用された。
(参照:http://www.town.daigo.ibaraki.jp/page/page000187.html)

※3、※4
ぜいたく庵ホームページによると、はるなくろは、群馬県農業試験場で支那種を母とし在来種を父として交配し、育成したもの。あかぎおおだまは、群馬県農業試験場で支那種を母とし在来種の1系統である金島在来を父として交配し育成したものである。
(参照:https://www.zeitaku.jp/connyaku/about/04.htm)

※5
井上石灰工業株式会社ホームページによると、ボルドー液はフランスで誕生した、硫酸銅と生石灰を混合した殺菌剤である。
(参照:http://www.inoue-calcium.co.jp/products/icbordeaux.html)

※6
こんにゃく.comWikipediaによると、コンニャクの花は全体の高さが2mほどにもなる。花全体は黒っぽい紫色をしており、独特の嫌な臭いを放つ。
(参照:http://www.konnyaku.com/info_konjac/kon33.html
    https://ja.wikipedia.org/wiki/コンニャク)
※7
民家の囲炉裏上部に取り付く構造体で、冬期に芋が凍らないように保管する角材で約1.8m四方の立方体に組み、屋根の小屋組から吊るし、内部に1~5段の床を設け、芋を並べる。
(参照:『常陸大子のコンニャク栽培用具及び加工用具調査報告書』)

※8
1745年に常陸大宮市に生まれた中島藤右衛門は、コンニャク粉の発案者である。畑で鍬で削られたコンニャクの切り口が白く干からび、腐ってないことに気づき、コンニャク芋を乾燥させて粉にする製法を考案した。そのおかげで、腐敗しやすく、水分が多く重いことから、流通に不向きだったコンニャクが、長期保存のできる流通可能なものになった。
(参照:『常陸大子のコンニャク栽培用具及び加工用具調査報告書』)